時は15時を回ったころ。所沢を出発してちょうど24時間だ。
国道7号から外れて海岸沿いの国道345号を北進する。

4月28日 15:07 新潟県村上市大月付近
新潟市から青森市へ至る東北日本海沿岸のメインルート、国道7号が新保岳(852m)を頂点とする葡萄山塊の東側、内陸部で峠を越えるのに対し、国道345号は「笹川流れ」と呼ばれる海岸線を沿って北上する。この先笹川流れは山塊が海に落ち込む険しい地形のため通り抜けが容易ではなく、内陸部の7号にメインルートを譲っていたのである。
険しく道路の整備も容易ではない海岸線ではあるのだが、海岸沿いは比較的雪は積もりにくい。このため「海岸無雪道路」として海岸線の道路を整備した例があり、この国道345号もその一つであった。点々とあった集落を結ぶ生活道路を広げて隧道を通し、自動車の通行が可能になったのは昭和43年(1968年)。

並行する羽越本線は大正13年(1924年)に新潟と秋田を結んでいて、当時から隧道が多用されている。隧道が連続する場合、写真のように覆いを足してくっつけてしまうことも多いようだ。

近代日本の交通網の構築は鉄道が早く、自動車の通る道路の整備はずっと遅れていた。今でこそよく整備された歩道付きの立派な国道となっているが、長らく車一台通るのがやっと、だったようだ。
大正時代に掘られたヒトハネ隧道というのは、その昔鎌倉を追われた源義経が東北へ逃げる際に、この峠を一気に飛び越えたことからついた「一跳山(ひとはねやま)」に由来する。新道が海岸沿いに移った今は隧道は封鎖され、かつての人々の行きかう様子を思うことはできない。

狭隘な道路もやがて複線化、そして直線化がすすめられ、昭和期に作られた隧道では廃止となったものも出てきた。大正浦隧道は平成元年に新道に役割を譲り、廃止となった隧道だ。

新道は馬下大橋として海上から回り込んでいるが、おそらく崖からの落石を避けるためだろう。崖をコンクリートで固めるよりは確実で安上がりなのかもしれない。


頑丈に作られた構造体だが、潮風に蝕まれ続けてコンクリートの剥離も目立つ。いつまでもこの場所に、そのままの姿でいられるとは思えない。

平沼義之・永冨謙 著『廃道本』(実業之日本社2008)によると、安政5年(1858年)に初めてこの場所に隧道が掘られたようだ。往来のとにかく不便で危険なこの場所に、この地の和尚主導のもと住民らが7年がかりで崖を掘り進め、初代の隧道34mが完成したとのことである。周囲を見る限りロッククライミングのごとく岩に張り付くか、この垂直としか言えない崖をよじ登るかしない限りこの崖を越える手段は見当たらず、あるいは荒れる日本海を船で渡るしかない。いずれにしても不便で危険極まりない中で生活を強いられていた中でのこの隧道の建設は、現代人が想像する以上の意味があったはずだ。

ゆるやかなカーブを一瞬で通り過ぎてしまう今、この古い隧道に気付く人も少ないだろう。人の手から離れた道は、忘れ去られて還っていくのみなのだ。
国道7号から外れて海岸沿いの国道345号を北進する。

4月28日 15:07 新潟県村上市大月付近
新潟市から青森市へ至る東北日本海沿岸のメインルート、国道7号が新保岳(852m)を頂点とする葡萄山塊の東側、内陸部で峠を越えるのに対し、国道345号は「笹川流れ」と呼ばれる海岸線を沿って北上する。この先笹川流れは山塊が海に落ち込む険しい地形のため通り抜けが容易ではなく、内陸部の7号にメインルートを譲っていたのである。
険しく道路の整備も容易ではない海岸線ではあるのだが、海岸沿いは比較的雪は積もりにくい。このため「海岸無雪道路」として海岸線の道路を整備した例があり、この国道345号もその一つであった。点々とあった集落を結ぶ生活道路を広げて隧道を通し、自動車の通行が可能になったのは昭和43年(1968年)。

並行する羽越本線は大正13年(1924年)に新潟と秋田を結んでいて、当時から隧道が多用されている。隧道が連続する場合、写真のように覆いを足してくっつけてしまうことも多いようだ。

近代日本の交通網の構築は鉄道が早く、自動車の通る道路の整備はずっと遅れていた。今でこそよく整備された歩道付きの立派な国道となっているが、長らく車一台通るのがやっと、だったようだ。
大正時代に掘られたヒトハネ隧道というのは、その昔鎌倉を追われた源義経が東北へ逃げる際に、この峠を一気に飛び越えたことからついた「一跳山(ひとはねやま)」に由来する。新道が海岸沿いに移った今は隧道は封鎖され、かつての人々の行きかう様子を思うことはできない。

狭隘な道路もやがて複線化、そして直線化がすすめられ、昭和期に作られた隧道では廃止となったものも出てきた。大正浦隧道は平成元年に新道に役割を譲り、廃止となった隧道だ。

新道は馬下大橋として海上から回り込んでいるが、おそらく崖からの落石を避けるためだろう。崖をコンクリートで固めるよりは確実で安上がりなのかもしれない。


頑丈に作られた構造体だが、潮風に蝕まれ続けてコンクリートの剥離も目立つ。いつまでもこの場所に、そのままの姿でいられるとは思えない。

平沼義之・永冨謙 著『廃道本』(実業之日本社2008)によると、安政5年(1858年)に初めてこの場所に隧道が掘られたようだ。往来のとにかく不便で危険なこの場所に、この地の和尚主導のもと住民らが7年がかりで崖を掘り進め、初代の隧道34mが完成したとのことである。周囲を見る限りロッククライミングのごとく岩に張り付くか、この垂直としか言えない崖をよじ登るかしない限りこの崖を越える手段は見当たらず、あるいは荒れる日本海を船で渡るしかない。いずれにしても不便で危険極まりない中で生活を強いられていた中でのこの隧道の建設は、現代人が想像する以上の意味があったはずだ。

ゆるやかなカーブを一瞬で通り過ぎてしまう今、この古い隧道に気付く人も少ないだろう。人の手から離れた道は、忘れ去られて還っていくのみなのだ。
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